Ahead of the Curve -日本から世界へ-

~日本、世界、社会を考えるブログ~

過去、現在、そして未来

ハルビンに訪れた一つの目的は、中国最北の地でロシアの文明がいかにこのハルビンという地に影響を及ぼしたのかを探るためであることは間違いないが、最大の目的とは日本軍第731部隊の歴史を探ることにある。

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ハルビンの中心から車でおよそ20kmの場所にそれがある。遠い昔、日本軍はこの地で細菌兵器を開発し、人体実験を行った。この事実を知る日本人は少ないと思うが、これは拭うことのできない史実である。

当時、細菌兵器の開発は国際法上禁止される行為であった。にもかかわらず、日本軍は開発と同時に実際に中国各地に細菌兵器を使用した。そして「医学の向上のため」という題目の下、多くの中国人を人体実験の実験台で殺めた。これらは日本の教育では決して学ぶことのない史実であり、日本が国際社会、そして人類に対して侵した最大の過ちの一つである。僕は日本人として、この歴史をしかと認識し学ぶためにこの地にやってきた。今回の旅の終着点でもある。 

タクシーに揺られて40分。ハルビン郊外の静かな住宅地に到着した。今では多くのマンションが存在し、多くの中国人がその地で暮らしている。しかしその一角におどろおどろしい姿をした古い建物と煙突が突如視野にはいってくる。それこそが日本軍731部隊研究機関の一部である。 f:id:Ahead-of-the-Curve:20170902003642j:plain

日本軍は、証拠隠滅のために研究所ごと爆破し、今日見えるのはその残骸の一部だ。そして僕は、煙突を見ながら、そしてその上の青い空を見上げながら少しの間目を閉じた。言葉にはならない重苦しい感情と、それとは相反するような突き抜けた青い空と大地の静けさが、その沈黙をより深いものにした。 f:id:Ahead-of-the-Curve:20170902002717j:plain

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見学中に多くの中国人の見学者を見た。とりわけ今日は多くの小学生や中学生が見学に来ていて、資料館の職員は熱っぽく日本軍の愚行を子供達に伝えていた。日本人がいかにして中国人に対して人体実験を行ったか。細菌兵器をどこに落としたのか?職員の説明は本当に熱を帯びていた。もし自分が小学生のころそのような話をされ、実際に数々の資料を見聞きしたら日本人を悪魔としか思えなかったと思う。でも、遠い昔、日本人は悪魔の様な行為を実際に中国人に対して行った。これは事実であり、日本人である僕たち自身がこの事実を知る必要がある。中国人が日本人を嫌いになるにも理由がある。

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いつの間にか随分長いこと研究地跡にいたようだ。そろそろ時間だ。大連を目指して南下しよう。きっと、僕はこの731部隊の地に将来来ることはないだろう。でも「日本人として、一度でもこの地にこれてよかった」。それが素直な感想だ。そして今を生きる僕たちは、未来を見なければならない。 

東洋のパリ

今回の旅の最終目的地でもるハルビンに到着した。ハルビンはシベリア鉄道によってモスクワへ通じる北東アジアの交通の要衝の一つであり、中国でも最も北部に位置する行政区画国黒竜江省の省都だ。19世紀末まで小さな漁村に過ぎなかったハルビンではあるが、20世紀前半には東清鉄道の建設と共に、ロシアがこの街を開発した。その結果、現在でも欧風建築が数多く残っており、東洋のモスクワ、東洋の小パリといわれるほどに美しい建物が存在している。中央大街が正にその一例だ。ハルビンは、ロシア統治の時代から日本へと引き継がれ、そして中国へと渡っていく。

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最後の写真はユニクロのハルビン支店。街を見渡すと日本の企業の看板、姿はほとんど見ない中で、ユニクロはこの中国の最果ての地で勝負している。

 

満州建国大学

満州というものを意識し始めたのは、僕の祖父がかつてそこで生活をしていたから?というわけではない。

実は、10年ほど前にこんなブログを書いたことがある。実家の近所に宮野さんというおじいちゃんがいた。個人的には特に関わりもなかったが「偉大な方。聡明な方。そして中国語が話せる」ということは私の祖父母から聞いていた。「中国語?」と思うくらいで、幼少の僕にとっては気にかけることでもなかった。大人になってわかったことは、彼は満州建国大学に入学し、この長春(新京)で青春をおくっていたということだ。(関連1:満員御礼 特別企画講演会「キルギス抑留 タムガ村600日」 - お知らせ | 新発田市立図書館)(関連2:著書)。満州建国大学といえば、満州国の最高学府。遠い昔にあんな「ど」が付くほどの田舎からどうやってそんなことを成しえたえたのか?当時、自分自身も米国に留学していたために、その宮野さんが辿った人生に興味を持ち、いつしか満州を調べるようになった。

今日、僕は満州にいる。かつて新京と言われた街を歩いている。満州建国大学もツーブロック先、目と鼻の先だ。ふと宮野さんのことを思い出した。「80年以上も遠い昔この場所で宮野さんが勉強していたのだろう」、そんなことを思いながら歴史を辿った。

 

かつてここに国の中枢があった

新民通りに連なるかつての満州国の行政機関だ。その多くは、吉林大学の医学部、薬学部などの校舎として使用されているが、これだけの手の込んだ建築物を短期間に作り上げた史実には感銘を受けた。とりわけ最後の関東軍司令部は、名古屋城を彷彿させる立派なお城だ。しかし、満州国という独立国のど真ん中にお城を建築するという発想そのものが、満州が傀儡国家でったことの証でもある。中国人からすれば、憎しみのこもった建物以外何もでもないが、今でも再利用して後世に満州国の生きた軌跡を残してくれていることには感謝したい。

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<偽満州国国務院旧址>

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<偽満州国軍事部旧址>

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<偽満州国軍事部旧址>

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<偽満州国総合法衙旧址>

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<旧関東軍司令部>

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歴史を辿る

瀋陽から高速鉄道に揺られ1時間40分。長春に到着。かつて満州帝国の首都新京があった街だ。瀋陽よりもさらに寒く早速スウェットを着用。北の街に着いたことを感じさせる。吉林省の省都でもあるこの長春も他の街と同じく、経済発展の波が押し寄せている。大きなビルが立ち並び、そのスケールから自分があたかもアメリカにいるような感覚すら覚える。

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この街には、いまだに多くの満州国時代の建造物が立ち並ぶ。破壊せずに、歴史的分文化財として保存してくれている中国には日本人としては感謝であるが、その全てに偽満州国の建造物であることが明記されている。日本人としては複雑な感覚ではあるけれど、この地では過去72年間これが現実だ。 

まず、最初に向かったのは、かつての皇帝の御所であり、溥儀もそこで実際に生活をした場所。映画「ラストエンペラー」でもロケ地として使われたので知る人も多かろう。

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f:id:Ahead-of-the-Curve:20170831130231j:plainこの文章を読めばわかるが、戦後いかに溥儀という人物が中国で評価されたかがわかると同時に、戦争とは常に両サイドにモノの考え方があるというまさにその一例だ。中国でこのような教育が施されれば、中国人が日本人を嫌いになるのもうなずける。そして、僕が「日本人の夢の軌跡を辿って」この地へ訪れていることも、きっと理解できないことだと思う。

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皇帝から犯罪者へ。そして平民へ。栄光と挫折を辿った溥儀。想像しようにも想像できないほどの栄枯盛衰だ。それでも彼は生きた。

長春へ、新京へ

今僕は、長春に向かっている。かつての満州国首都新京だ。車窓を眺めるとそこには広大な大地が広がっている。かつて多くの日本人が夢を見てやってきた大地だ。その日本人の情熱を僕たちは忘れてはいけない。長春ではかつての日本人が歩んだ軌跡を精一杯辿りたい。

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三个世界文化遗产

瀋陽という街についた。第一印象は瀋陽駅のデザインが東京駅に瓜二つということ。これは偶然ではなく意図してそのようになっている。なぜなら、日本人が建設したからだ。この建造物は正に満州国時代の名残であり、時を経ても褪せない歴史がまずは最初に僕を出迎えてくれた。

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街は広く道は広い。空気は真夏にも限らず、既に厳しい冬の到来を感じさせるようにどことなく冷たい。瀋陽は、中華人民共和国建国以降は重化学工業都市として急速に発展した街だ。一方、歩きゆく人々からは中国人ならではの活気やエネルギーを感じる街ではあるが、工業としての活気は既にピークアウトしたのでは?そんな印象を受ける街。どことなくさみしい街。

 

まずは昼ごはんを食べよう。創業180年の餃子屋さん「老边饺子馆」で餃子をむさぼる。戦後満州から引きあげた人たちが日本各地で餃子を広めた。遠い昔、きっとこの餃子に感動して日本に持ち帰った先陣が多数いるに違いない。餃子をかみしめながら、歴史を心でかみしめた。

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瀋陽では、満州や日本の雰囲気は残っていない。駅が東京駅に似てるくらいだ。街にもこれといったエンターテイメントも存在しない。しかし、重要なことは中国の王朝「清」がこの街から始まったという史実だ。第1代である愛新覚羅ヌルハチが王朝を築きその故宮が今でも存在している。第2代の愛新覚羅ホンタイジまで瀋陽で政権を続け、その後、明を撃退した後は北京の紫禁城へと拠点を移す。その第12代目が愛新覚羅溥儀でありラストエンペラーとなる。溥儀が満州の皇帝に戻った時、日本の関東軍の満州を傀儡国家運営しようとする策略とは別に、溥儀自身にもその地へ戻る意味があった。理由があった。一族が始まったその地へ。溥儀は愛新覚羅一族の再起を満州国に託した。

さぁ、行こう。世界遺産「瀋陽旧故宮」へ。

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ヌルハチの玉座

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そして、初代皇帝ヌルハチの陵墓である世界遺産「福陵」へ

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そして電車、タクシーを乗り継ぎ、第二代皇帝ホンタイジの陵墓ある世界遺産「昭陵」へ。

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短時間に三つの世界遺産を駆け抜けた。足はパンパンだ。そして瀋陽で見れるものは、ほぼこれで全てといえる。でもこれらの歴史を辿ることは意義深い。ラストエンペラーとなった溥儀にいたるまでの清王朝の栄枯盛衰は、あまりもに鮮やかであり、あまりにも儚い。この目前に広がる歴史のスペクタクルに心をうたれながらも、僕の脳裏には一説の詩が浮かんだ。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

溥儀が再起をかけた満州帝国の首都である新京(長春)への訪問はいよいよ明日だ。

坂の上の雲へ

まるで違う街についたようだ。想像以上の大変化だ。

 

15年以上も前に大連という街を訪れた。どことなく欧州の香りのする不思議な街。かつてロシアが街を統治していた時代の名残だ。この街はその後、日本の統治、そして満州の時代を経て、現在は中国の大都市として発展を続けている。空から眺めたその街の発展ぶりは、15年前とは比べ物にならないほどに近代化していた。文明が短い時間で街の様相を大きく変貌させた。

僕の中国東北地方(旧満州)の旅が今日始まった。日本人としてこの目で確かめてみたい様々な事実。時間の経過とともに、中国人、そして日本人の間でも薄れていく史実をこの5日間の旅で再検証・再確認してみたい。

初日の行先は旅順。そして203高地。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読んだ人には説明はいらない。かつて日本とロシアが激戦を繰り広げたこの地へ訪問することも日本人としては意味が深い。

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無敵と言われた要塞、旅順港。

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戦局を覆し、日本を勝利へ導いた280ミリ榴弾砲。

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日本軍1万人、ロシア軍5000人の犠牲を払って、日本が獲得したこの高地から日本はこの榴弾砲で旅順港に浮ぶロシア艦隊に向けて砲弾を浴びせた。南から迫るロシアのバルチック艦隊が到着する前にこの旅順港をおさえられたことが、日露戦争における日本の勝利の要因の一つだ。

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日露戦争勝利のモニュメント。

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近代化した大連の街

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f:id:Ahead-of-the-Curve:20170829082150j:plain物事には背景がある。歴史にはストーリーがある。日本が歩んだ中国東北地方の歴史を一歩ずつ紐解いて行こう。

満州へ

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日本人は満州というかつて存在した国のことをどれだけ知っているだろう。満州とはかつて中国東北部に存在した国家である。1945年に日本が敗戦するまでの13年5か月の間、満州は独立国家として中国東北地方に存在した。(世界各国はこの満州を独立国家として認めていなかった。これが日本の国際連盟脱退を促し、やがて太平洋戦争へとつながっていく)。日、漢、満、朝、蒙という5つの民族が協和した理想の国家、そしてユートピアとしての満州国は1932年に産声を上げた。しかし、史実が如実に示しているように、実際に満州という存在は、協和どころか日本人を優遇し、多民族に対する差別が跋扈する日本の傀儡国家に過ぎなかった。このようなことから、現在の中国(人)は満州の存在を認めていなく、過去の歴史に対しても、すべての面で偽満州という呼び方を一貫して行っている。実際、日本人が行った差別をはじめとした様々な日本人優遇政策は、現代を生きる僕から見ても協和という言葉とは大きく乖離する愚策である。そこに国家としての独立性などは存在しなかった。

しかし、戦後72年が経過する今、僕はこの満州という地方を訪れることにした。それは、いかなる歴史的な背景があるにせよ、かつて日本人がそこに国を作ろうと多くの人間が情熱を注いだその事実をこの目で確かめたいからだ。日本人にすら忘れ去れた国、満州。今日、中国という大国の中で今を生きるその姿、そして先陣が挑んだ足跡を辿る旅に出よう。出発は明日。

 

<参考>

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懐かしき味 大統領

大学生のころ、親父が東京に出張した際にはよく二人で、上野にあるもつ煮込み屋「大統領」に連れて行ってもらった。昭和25年創業の老舗だ。かつて新幹線がなかった時代は、現在の東京が遠距離移動交通の中心ではなく、夜行列車が終着する上野が中心だった。当時、新潟から東京の大学へ上京した親父にとっても懐かしい場所であることから、大統領は懐かしき場所であり、懐かしき味だ。

今日、20年ぶりくらいにプライベートで大統領へ訪れた。自分自身懐かしき場所であり、ワクワクしながら訪れたが、なんと古い本店は既に壊されて改装中。そして驚くことに、目と鼻の先に、支店である「もつ焼き大統領」が大型化して店を構えていた。月曜日の真昼間だというのに店は満席。異様な光景となっていた。懐かしき味を求めて、その待並ぶ行列に参戦した。

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味はあの時と変わらない。親父は高齢化し足が悪くなり、なかなか遠出ができない身体になってしまった。でも、まだ身体がなんとか動くうちに一度おやじと二人で肩を並べてこの店に来てみたい。そんな思いがこみ上げた。昭和の思い出であり、親父のとの思い出が詰まったお店大統領。いつまでも変わらないでほしい。

 

matome.naver.jp

 

空き家

昨日、僕の実家で増加する空き家の現実の話を書いた。奇しくも今日日経新聞にこんな記事があった。現在日本では820万戸の空き家が存在し、これからその数は2033年にかけて3倍にまで達するという。現実的にはその多くは何もしなければ時間の経過と共に朽ちていくだろう。一方、インバウンドの急増の中で、ホテルや旅館の数が足りないという相反する現実的な問題が浮き上がってきている。Airbnbはじめ、規制緩和を通してこれから不稼働資産の有効活用も徐々にこの日本でも進みそうだ。しかし、その空き家にしかとブランディングを施し、事業として進めているプレーヤはまだ少ない。とはいえ、既に先駆者も存在する。バリューマネジメント里山十帖。今後の活動には注目だ。

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無色透明

また、この日がやってきた。8月15日。72年前の今日、戦争は終結した。

帰省している姉からこんな話を聞いた。姉は新潟県で教員をしている。先日開催されたとある教育関連の講演会でのこと。登壇者は、戦争を経験した元軍人であり、その後新潟の教育界に大きな貢献をした重鎮。

曰く、「当時は、死ぬことなど全く怖くなかった。いつでも国のために死ねると思っていた。国が悪かったのではない。全ては教育だったのだ。教育が国を玉砕させた」。

教育というものは無色透明だ。しかしその教育というものがいかに人類の歴史に大きな影響を及ぼすかを改めて感じさせる言葉だ。翻って、現在のゆとり教育、偏差値教育も、日本の未来に大きな影響を及ぼすということだ。

 

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農村の眺めは美しい

お盆。お墓参りをしなら一枚写真をとる。我が先祖のお墓は高い丘の上にあり、見晴らしいは最高だ。そこには懐かしき田園と農村の風景が存在する。これぞ「田舎」といえる僕にとっては一級の眺めだ。

一方、風景から見える美しさとは裏腹に、この地で生を営むことは決して楽なことではない。これといった産業もなく、田園は広がるが米作だけで生きていける時代は遠い昔に終わった。美しい田園の風景?これは人が生活を営むことができるから存在する人工的な風景だ。人の生活がなくなればこの風景は野生に戻る。この地に限らず、このような野生への回帰という臨界点に直面する集落は日本には数戦も存在する。

久しぶりに帰省して驚いた事実がある。この小さな集落に二つの空き家が生れてしまった。「あっ」という間の出来事だった。様々な事情もあるだろうが、先祖から受け継いだ家を離れ、他の地へ越してしまった。でも残された家はまだ立派だ。人だって十分に住める。でも、このまま人の手から離れれば、やがて木が生い茂り野生に戻っていくだろう。小さな農村で今日生じている厳しい日本の現実だ。

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今日、こんな記事が日経新聞にあった。主旨は、外国人観光客は、都心部への訪問から、次は地方への旅行外国人者も増加してきいるということだ。大都会を経験した旅行者が、リピーターとして、日本の地方へも訪れる。自然な流れだ。是非このチャンスをつかみたい。

上述のように、僕の田舎には空き家が確実に増加してきている。中にはまだまだ建物としても素晴らしいものも存在する。そういった”田舎の日本の生活”自体を”経験”として提供してみてはどうか?。もちろん、1週間~2週間といった長期滞在型でじっくりその地を堪能してもらう。食事はその土地の人(イメージ的にはおばあちゃん)にその土地の食材をふんだんにつかって作ってもらう。夜は、出張シェフに来てもらい、和食のフルコースを目の前で作ってもらおう。顧客の少ない自店で顧客を待つよりは、ニーズのあるところにピンポイントで合わせる。単価が高ければ経済的にも合理的だ。他方、土地は余っている。ならばそれも活用しよう。その土地で米を一緒に育てたり、野菜を一緒に育てる。一緒に稲を植え、畑に種をまき生を授ける。生育の管理はその土地の人が担う。そして収穫時にまたリピーターとして再来してもらう。更には、取れたコメでお酒を造り(一緒に仕込む)その次の年に来てもらう。登山をしたり、山菜をとったり、魚を釣ったり、キノコをとったり、”田舎”のゆったりとした時間を堪能してもらう。その活動すべてに、その土地の人はインストラクターやガイドとして貢献してもらう。大きな設備投資なく既存のインフラを利用し雇用が創造できる。結果的に文化は継承できるし、農村の美し風景も維持される。あとは、これを具体的にどうやって実行するかだね。Start small。 まずは、現在空いている空き家を少しだけ改装して、最小限の投資で 開始するのが重要だね。これは僕自身の構想でもあり、実現したい夢でもある。

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