今年も桜の季節が来た。
満開まであと数日。
何があっても、毎年桜は咲く。
ジョギング中の風景
今年も桜の季節が来た。
満開まであと数日。
何があっても、毎年桜は咲く。
ジョギング中の風景
最近、メディアでもよく取り上げられている未来食堂。
メニューは定食一種類のみ。1種類しかなく顧客に選択しを与えないので、お店側は効率的準備ができる(牛丼しかない牛丼屋と同じだ)。お客様がご入店した時点で準備に入れる。従ってお店の回転率も上がる。結果的に人件費や食材のロスを減らしている。また、「ただめし」や「まかない」といユニークなシステムを設け、人と人がつながる場を作っている。
どんな産業でも、どんな場所からも、ちょっとしたアイデア、工夫と仕掛けで、新しい価値が生まれ、人が集まる。その一例だ。 今度行ってみよう。
システム
私ごとながら、以前こんな記事を書いたことがある。父親が長いこと築いてきた事業をたたむことにした。正確にはたたむつもりだった。一時は大きな事業を営み、社会に足跡を残した会社。でも経営者が光を失えば会社も光を失う。
私ごとながら、父と母と今後会社をどのようにしていくか、そしてそれが何を意味するのかをしっかり話し合った。父は既に会社をたたむことに意を決している。僕が何を言おうと「金融で生きてきた君には、技術は何もわからない」その一点ばりだ。
私ごとながら、様々なことがあったけれど、父と共に再チャレンジすることにした。この度、僕は公式に父の会社の取締役となり、彼の会社をバックアップすることにした。たたむのではなく、もう一度成長に向けて舵を切る。閉じるではなく、未来に挑む。
僕には二つの思いがある。父親が育てた会社をつぶしたくはない。それは当たり前だ。そしてもう一つは、地方の衰退を止めなければ本当に地方は衰退するからだ。日本に地方がなくなれば、日本ではなくなる。
5月に、役員が集まり今後の戦略を話す。きっと大地が織りなす薫風の香りがする季節だ。
僕は、日本から世界へというブログを長らく書いてきた。でもその根本は「地方から世界へ」だ。火が消えない限り、挑戦すべき。否、挑戦しかない。それが父と僕との結論だ。
やるしかないだろう。いくしかないだろう。
最近、頻繁に出入りするお店で、日本酒を楽しんできた。
前日も遅くまで飲んでいたから、迎え酒ではあるが。。。
さて、いつもながらに料理もおいしいし、お酒もおいしい。
でもつくづく思うことがある。
その料理も、その時間も、空間も、すべてが唯一無二だということだ。
やはり、店主が作り出すお料理、雰囲気、空間、会話、その一つ一つが集合体として、その時間の出汁となっている。他ではまねできない唯一無二の芸術だ。
飲食とは、最も僕たちの生活の身近にある存在の一つだ。でも、それを事業として拡大していくことは極めて難しい。なぜなら、その空間作りは、その店主にしかできないからだ。もちろん、チェーン店含め事業の拡大に成功している企業は多数存在する。でもラグジュアリーなレベルが上がれば上がるほど、事業のチェーン化・拡大は難しくなる。これは、日本文化を世界に届けることを実践している僕にとって、大きな壁であり、矛盾でもある。
気が付いたら、かなり飲んでいた夜。
今日は、友人のKと築地にて食事。両方とも元々金融マンだったが、面白いことに二人の人生では、今どちらも飲食事業にかかわっている。そんなこともあり、最近はよく二人で飲みに行くことも多い。いつもKが探しだしてくるお店は面白い。本日お邪魔したのはこちら。
古民家を利用したその空間デザインは、素晴らしいの一言につきる。玄関を開けると、「ただいま」と言いそうになりながら、靴を脱ぎ中へ。
素材を生かした和食と日本酒のマリアージュ。
また来たいと思える素敵なお店。
つくづく思う。日本には本当にたくさんの素晴らしいお店が存在する。そしてこれは日本の長所である以上に、世界における戦略的優位性だ。どういう意味?日本の飲食が強いことには理由があるということだ。それは飲食業における規制が限りなく少ないということ。例えば、香港ではそうはいかない。レストランのライセンス、そしてお酒を売るライセンスを取得するためには、非常に難しい審査を通らなければならない。時にはそのライセンスを取得するためには数か月も要する。もちろん、そのライセンスを取得するためには、お店のデザインにおいても様々な制約を受けることになる。一方、日本ではその規制がないに等しい。だから様々な人が飲食業に参入するし、そこから様々な「創造」や「革新」が生まれる。そう、和食が強いことには理由がある。(更に、なぜ日本で規制が少ないのか?にも理由があり、それは江戸時代の参勤交代にまでさかのぼるが、ここでは割愛)。
和食文化の輸出は既に始まっている。しかし、上記のことからも、本当の和食は日本でしか経験することができない。本当の和食は日本でしか食べることができない。
昨日の朝(まだ香港にいた)は、前日の宴のせいで体は随分と蝕まれていた。
朦朧とする意識の中で、フラフラしながらホテルを出てみると、そこにはなんと現在香港で一世を風靡する「一蘭」があり行列をなしているではないか。
気が付いたら、僕もげっそりした顔と無精ひげで香港人と一緒に並んじゃった。笑
しかも替え玉までしちゃいました。
さて、値段をみると香港の物価の高さがわかるだろう。
ラーメン、替え玉、そしてラムネ(笑)、あわせて175ドル
大体2600円くらいだ。
こんなに高いラーメン食べたことないが、それでも香港ではこれが普通で、実際並んでいるのは、若いカップルとか、普通の人々。
香港の物価の高さがわかる一枚のレシートとなった。
香港で最後の夜(18日)は、こちらへ。
お店の名前にエッジがありすぎだけれど、
店名は、「酒の一滴は血の一滴 涙こぼしても酒こぼすな」
香港へ行く時には毎度お邪魔する隠れ家的バーで、香港に在住する駐在員の間では”ある種”聖地のような場所だ。いつもママの真希さんのトークに抑され、すでに1軒目で大量に日本酒を飲んできたにもかかわらずワインを2本もあけてしまった。
実は、こちらのお店は元々ビルの16Fにあったのだが、今回いくといつの間にか14F 移動していた。「あれっ!?」。曰く、半年前に晴れて独立して、場所は移動。現在は完全に一人で切り盛りしているのだという。異国の地、香港という地で、一人で事業を切り盛りしていうくのは決して楽な道ではない。それでも、きっと真希さんの背中には多くのファンがついている。
香港へ行かれる場合は、ぜひこちらのお店に立ち寄ってください。納豆オムレツがおすすめです。
今回香港に来た目的の一つは、手短に言ってしまうと、大先輩(40歳ほど先輩)にご夕食に招待していただいたこと。(もう一つは明日自店にて開催する酒器展)。夕食会場は僕のお店にて。先輩のご好意には頭が下がるばかりだが、僕自身、一顧客として自店で食事をすることも、中々機会がこれまでなかったので、この日が来ることを随分前から楽しみにしていた。
19時から始まったコースメニューは9品。
おいしい料理とお酒と共に話は沸いた。
ずばり、料理は最高だ。
Team の皆さん、素晴らしいお料理をありがとう!
Great Job!
夜の12時に香港へフライト。
ついたのは朝4時半。
宿泊先のホテルへタクシーで移動。
10時からのミーティングに向けてつかの間の仮眠。
朝起きて、朝ごはんを求め街を放浪。
香港らしい朝ごはんにたどり着いた。
ワンタン麺
疲れた胃に染み入るぜ。
昨日は千葉にいって、今日は仙台に行ってきました。
仙台は僕の好きな街。
でも、写真一枚もとれなかったな。
時間に追われていて。
明日から香港です。
現場からレポートします。
あの大震災から6年が経過した。人類は皆平等に6歳年をとった。未だ仮設住宅での生活を強いられる人。あの年に生まれた人。都会で働くサラリーマン。皆、6年、年を重ねた。
あっという間の6年?長かった6年?皆さんにとってはどんな6年だっただろうか。僕個人にとっては、人生を大きく変えた6年だった。必死に右往左往し、悩みぬいた6年だった。
3月11日。
僕はこの日になるといつも1つのメッセージのことを思い出す。ある中学校の校長先生が卒業生に送った言葉だ。6年たった今でも、もう大人になった僕にも、褪せずにひしひしと伝わってくる強いメッセージ。
今日はこのメッセージをここで共有したく、そして自分自身に今一度このメッセージを伝えたくてブログを書いた。
時に海を見よ。
諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。
諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。
大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。
教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32
一言付言する。
歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。
泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。
今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。
被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。
巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。
本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)
被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。
梅花春雨に涙す2011年弥生15日。
瓦礫を目前に立つ筆者/2011・石巻
日々寝れない日々がつづいている。
仮に寝たと思っても、いつも頭は動いていて
夢にまで現実がでてくる。
気が付くと、いつのまにか外が明るくなっている。
そこでもう寝る時間がないことを悟る。
また朝が来たことを知る。
そんな日がずっと続いている。
この一か月はかなり体を酷使した。
結果的に体を壊した。
ふと前が見えなくなる。
生きることが怖くなる。
それでも明日はやってくる。
止まったら終わりだ。
諦めたらそこで終わりだ。
最後は情熱だ。
情熱しかない。
昨日は、ウォートンスクール(WG09)の同期会が開催された。場所は、西麻布にあるビストロアンバロン。なんと、こちらのレストランのオーナーは同じくウォートンスクールの卒業生であり僕の先輩になる両角さん。美味しいフランス料理をご提供いただいた。
昨日は、全員が集まることができなかったけれど忙しい中6人が集まった。かつて、2年間アメリカで共に猛勉強した仲間たち。2009年に卒業してからもう8年が経過しようとしている。進んだ道はそれぞれ異なるし、この8年の間には多くの出来事がそれぞれにあったことだろう。でも仲間であつまると時間は”あの時”で止まっている。まるで昨日のことのように、留学時代の話で話は盛り上がった。
面白い出会いがもう一つ。先輩である両角さん。もともとはバリバリの金融マンでありながら、なぜレストランの経営に足を踏み出しのか。僕自身の歩んだ道とも重なる部分も沢山あり、お話を興味深く聞かせてもらった。そして最も面白い事実は以下だ。
一言でいうと、非常にソーシャルな活動だし意義のある仕組みだと思う。自身の経験、そしてキャリアから生まれる信頼性もコンサルタントとして重要な武器になっていると思う。何より、この活動を通して社会に付加価値を与えることと同時に、コンサルを受けた人が、レストランとしてのお客様になってくれたり、その口コミにつながったりと、結果的にはお店の稼働率の向上に貢献してくれるわけだ。社会的な活動でありなら、非常に戦略的な仕掛けだと思う。さすがウォートンスクール。
飲食業って非常に難しい。どんなにおいしくても、時間がたてばやがてブームは過ぎ、飽きられてしまう可能性が高い。もちろん、そうならぬよう現場は常に成長していかなければならない。一方、味や価格だけの勝負だけではなく、そこに人が集まる仕組みをつくっている先輩の活動には大きな学びを得た。このエッセンスは、僕の今後の活動にも活かしていきたいものだ。
何はともあれ、素晴らしいお料理を堪能させていただきました。
またプライベートでリピートしたいお店なり。
思いっきり雑談だが、男の子が「女湯」に入れなくなる年齢が各地方により定められていて、しかもその地により若干ながら年齢が異なるようだ。
でも、最もリアリティーのある話は以下だと思う。
ある少年が番台おばちゃんにたずねます。
「男の子はいつになったら女湯にはいれなくなるの?」
するとおばちゃんはこう答えます。
「女湯に入りたいと思ったとき」
笑っちゃいます。
雑談でした。